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「家族という暴力」2

なかなかまとまらないのですが、覚え書きとして書いていきます。





芹沢氏は、暴力、虐待を防止する方法は、見える虐待を対症療法的になくす努力をすると同時に、見えない虐待を見えるものに浮かび上がらせないようにすること。虐待防止の本質的目的に寄与するその方法が「考えるということ」だと言います。



暴力とはなにか、虐待とはなにか。自分のなかの暴力性、権力性を点検していく。



どうやって点検すればいいのか。芹沢氏は以下のように書いています。







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たとえばきちんとした<いい子>を歓迎する傾向の強い自分について。集会に子連れで来て、泣く子をあやしながら話を聞いている人を、気が散る存在としてうとましく思う自分について。家事、育児は女の仕事だとどこか考えている自分について。わが子の「人並み」な高学歴化を願う自分について。学校に行っていない子どもやその家庭に憐憫のまなざしを向けている自分について。子どもは善悪の判断も意思決定もできないのだから大人が正しく教え導かなくてはならないと考えている自分について。どうなったとき自分は攻撃的になるか、正義や被害者感情を振り回して人を責めまくるか。



こういう自分の行動、論理を自己正当化する自分について<考えること>、これが核心的なテーマなのです。人にたいしてどうこういうよりも、まず自分の内側の暴力の契機を探っていく。虐待の根を明らかにしていく。

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この芹沢氏の挙げた<自分>。これには当てはまらないぞ!と言いたいけれど、やっぱり子どもはいい子にしたいし、人並みな高学歴を望んでいるし、集まりに子どもが泣いていたら腹が立つ、と思う。



でも、でも、集会に小さい子どもを連れてくること自体がちょっと非常識じゃない!?と思ってしまう私。ここで関わってくる要素に、子どもを取り巻く環境、具体的には子ども観、教育熱、女性の置かれた状況、社会情勢などがあり、こういう要素が親子関係、家庭の姿を規定する要因だと芹沢氏は言います。



つまり、小さい子どもをどこかに預けられない状況、は社会的問題を含んでいるし、更に言えば社会が子どもに寛容であるか否か、も関わってくるのです。



芹沢氏は、社会(大人)に子どもにたいする管理的姿勢が強くみとめられるとき、親はわが子をきちんとさせたいと思い、早期に「しつけ」に走る、きちんとさせられない母親はだらしない、という視線のあるところでは母親は子どもに寛容でいられなくなる、よくしつけられた子どもという評価はすなわち母親への評価である、といいます。



反対に、大人の子どもにむけるまなざしが寛容であり、子どもに大人と同じことを求めるのは酷であるという子ども観が浸透している社会では、親は神経質にならずにすみ、それだけ子どもは伸び伸びと育つ,と。



そして社会に関連して家族の有り様にも言及しています。





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社会の学歴にたいする市場価値が高まっているとき、家族はわが子の教育に多大なエネルギーを注ぎます。習い事、塾通い、幼稚園通園が一般化するのが三歳です。このような教育の「早期化」の進行は、わたしたち家族の教育家族化度が高まったという事実を告げるもっともわかりやすい現象です。そのひとつの帰結を、リストカットする子ども、母親に首を絞められ殺害された子どもの例にみてきました。

(中略)

教育家族化した家族という現実をしっかりと認識するところからスタートせざるをえないのです。学校に行きたくない、塾に行きたくないといった子どもの表出を、親が自分の教育観にたいする否定ととらえず、逆にわが家がいかに教育家族化しているかを自覚し、そうしたあり方を修正、解体してゆく絶好のチャンスとして受けとめていけるなら、親子関係を氷結させないですむのではないでしょうか。

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私はいい子でした。言われた事をやる素直な子、という評価でした。勉強も自分からしました。小学生のとき寝る時間は八時でした。でもそれが普通だったので何も疑問は起こりませんでした。唯一救いだったのは、両親から勉強しろ、と言われたことがなかったことです。やっと二十歳ころに爆発しました。「生んでほしいなんて頼んでない」と母に言い、泣かせました。



私は子どもにもいい子を求めています。きっと母親が育てたように自分もやって来たように思います。それをカバーして鷹揚でおおらかな父親がいれば事は違うのでしょうが、私の夫は神経質でしつけにはとてもうるさいです。



箸の持ち方、食べ方、さまざまな事でうるさく言います。そうして育ってきたこども達はいい子です。いい子でいようと自覚してはいないかもしれませんが、長女などはびくびくしている事もあります。次女はおむつがとれてからおねしょはおろか一回も粗相をした事がありません。(言語聴覚士の先生はこれを言ったとき、「なるほどね~」と笑っていました)でも次女は言葉が遅く吃音を持っています。長女は私に気を使います。伸び伸びとは言えない状況です。



どうやったらいいんだろう、と考えます。考えることが一番の近道、だと私も思います。



この本でひっかかった言葉に「管理的姿勢」というのがあります。

私はずっと子どもを管理してきたのではないか、と思い当たりました。

もちろん大事な子どもですから、怪我をしないように、栄養が十分とれるように、睡眠を十分とるように、学校で困らないよう、ついていけるよう、勉強がわかるよう、育ててきたんです。



でもやってきたことは子どもの管理だったのかもしれない、と思うのです。



まだまだ続きます。


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